東京高等裁判所 平成10年(行ケ)99号 判決 1999年12月21日
原告
チッソ株式会社
代表者代表取締役
【A】
訴訟代理人弁理士
【B】
被告
特許庁長官【C】
指定代理人
【D】
同
【E】
同
【F】
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
特許庁が平成9年異議第70037号事件について平成10年1月23日にした取消決定を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告
主文と同旨
第2 当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯
原告は、発明の名称を「液晶組成物」とする特許第2514607号の特許発明(昭和61年7月30日に出願した特願昭61-179194号を原出願として平成7年2月9日に特許出願、平成8年4月30日に特許権設定登録。)の特許権者である。
上記発明の特許(以下「本件特許」という。)については、大日本インキ化学工業株式会社から特許異議の申立てがあり、特許庁は、これを平成9年異議第70037号事件として審理した結果、平成10年1月23日に「特許第2514607号の特許請求の範囲第1項ないし第12項に記載された発明についての特許を取り消す。」との決定をし、同年3月9日にその謄本を原告に送達した。
2 特許請求の範囲
(1) 本件特許の特許請求の範囲請求項1(以下、同項記載の発明を「本件第1発明」という。)
ネマチック液晶に添加した時に誘起されるコレステリック相の旋回能の温度依存性を正とする光学活性物質少なくとも一つと、該光学活性物質とらせんのねじれ方向が同一で、かつ、ネマチック液晶に添加した時に誘起されるコレステリック相の旋回能の温度依存性を負とする光学活性物質少なくとも一つとを含有することを特徴とするネマチック液晶組成物。
(2) 本件特許の特許請求の範囲請求項12(以下、同項記載の発明を「本件第2発明」という。)
ネマチック液晶に添加した時に誘起されるコレステリック相の旋回能の温度依存性を正とする光学活性物質少なくとも一つと、該光学活性物質とらせんのねじれ方向が同一で、かつ、ネマチック液晶に添加した時に誘起されるコレステリック相の旋回能の温度依存性を負とする光学活性物質少なくとも一つとを含有することを特徴とするネマチック液晶組成物を用いることを特徴とする液晶表示素子。
3 決定の理由の要点
別紙決定書の理由の写しのとおり、本件特許の特許請求の範囲請求項1ないし11の発明及び請求項12の発明の要旨を、それぞれ、本件第1発明及び本件第2発明(以下、これらを合わせて「本件各発明」という。)と認めたうえ、本件各発明は、本件出願日前の出願であって本件出願後に公開された特願昭60-96728号の願書に最初に添付された明細書又は図面(以下、両者をまとめて「先願明細書」という。)記載の発明(以下「先願発明」という、別紙図面参照。)と同一であるから、特許法29条の2の規定に該当し、特許を受けることができない、と認定判断した。
4 本件特許に係る願書に添付された明細書(以下「本件明細書」という。)の記載
本件明細書には、本件各発明に関して、次の記載がある。
(1) 「本発明はネマチック液晶組成物に関する。さらに詳しくは、液晶表示素子に使用して、そのしきい値電圧の温度依存性の改善されたネマチック液晶組成物および固有ピッチの温度依存性の改善されたネマチック液晶組成物に関する。」(甲第2号証9欄47行ないし10欄16行)、「周囲の温度変化による表示品質の低下はしきい値電圧Vthの温度変化に帰因される。液晶分子の逆ツイストを抑えて液晶表示素子の表示品質を保つためにらせんのねじれ方向が右まわりあるいは左まわりの光学活性物質を微量添加するということも、ごく普通に行われている。しかしながら、液晶組成物のしきい値電圧が、まだかなりの温度依存性を有しているために、周囲の温度変化による表示品質の低下は避けられない問題である。」(同10欄35行ないし42行)、「SBE方式、DGH方式そしてPC方式については、固有ピッチが温度によらず一定であることが要求されている。また、TN方式でのしきい値電圧Vthの温度依存性の改善のためには、固有ピッチが温度の上昇と共に短くなることが要求されている。しかし、・・・温度変化による固有ピッチの温度変化の大小が調整できることも必要となる。」(同13欄1行ないし8行)
(2) 「本発明の第一の目的は旋回能P-1の温度依存性を殆どなくしたネマチック液晶組成物を提供することにある。本発明の第二の目的は、TN方式やSBE方式或いはDGH方式において、周囲の温度変化による表示品質の低下を抑制され、視覚、コントラストそして応答速度などが改善された液晶表示素子を提供することにある。」(同14欄16行ないし22行)、「本発明者等は、・・・従来から知られている光学活性物質が、得られる液晶組成物の旋回能を温度上昇に伴い減少させる(温度依存性が負である)のに対し、これとはまったく逆に・・・(温度依存性が正である)光学活性物質があることを見い出した。さらに・・・混合してネマチック液晶に添加することによって、得られる液晶組成物のらせんピッチの温度依存性を自在に調整できることを見い出した。」(同14欄24行ないし39行)
(3) 「【発明の効果】・・・(ア)温度変化による旋回能P-1の変化をほとんど零にした液晶組成物が容易に得られるので、SBE方式、DGH方式、PC方式などへの適用が容易で、その結果、視角が広く、コントラストが高く、そして応答速度の大きい液晶表示素子が得られる。(イ)旋回能P-1の温度による変化を自由にコントロールされた液晶組成物を容易に得ることができるので、TN方式へ適用して、周囲の温度変化による表示品質の低下の少ない良好な液晶表示素子が得られる。(ウ)・・・らせんのねじれ方向が同じ向きの光学活性化合物を用いているので、らせんのねじれ方向が右回りの光学活性物質とらせんのねじれ方向が左回り(「右回り」とあるのは誤記と認める。)の光学活性物質とを併せて含有する液晶組成物において必然的に生じるねじれ方向の逆転現象を回避することができる。(エ)らせんのねじり方向が同一の光学活性物質を用いているため、右ねじりの光学活性物質および左ねじりの光学活性物質を混合して使う場合と比べて、少ない量の添加で所定のピッチが得られる。(オ)添加量が少なくて済むため、元のネマチック液晶組成物の特性に余り影響が出ない。(カ)一般に、ネマチック液晶化合物に比べて高価である光学活性物質の添加量が少なくて済むため、比較的安価にネマチック液晶組成物が得られる。(キ)同一のねじり方向の光学活性物質を用いているため、右ねじりおよび左ねじりの光学活性物質を混合して用いる場合のように、混合比率の制限がないので、固有ピッチの温度変化による変化をコントロールするのが容易である。」(同35欄16行ないし36欄18行)
第3 原告主張の決定取消事由の要点
決定の理由のうち、7頁9行ないし8頁11行及び17頁9行ないし17行の先願明細書の記載事実の認定、10頁15行ないし11頁4行の特開昭55-38869号公報(以下「甲第4号証刊行物」という。)の技術的意義についての認定、12頁8行ないし17頁7行の先願明細書の記載事項の判断及び異議申立人の行った誤ったシミュレーションを前提にした判断並びに19頁3行ないし15行の結論を争い、その余は認める。
決定は、先願明細書の記載の理解を誤ってそこに記載されていない事項を記載されているものと誤認した結果、本件各発明と先願発明との一致点を誤認し、相違点についての判断を誤ったものであって、違法であるから、取り消されるべきである。
1 取消事由1(一致点の誤認)
(1) 先願明細書の「あるいは逆の温度変化を持つ、従来知られていた光学活性物質と組み合わせることによって、更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能であり、多様な要求に対応する事ができる優れたものである。」という記載の「逆の温度変化を持つ、従来知られていた光学活性物質」ということは、旋回能の温度依存性が負のカイラル剤(以下、単に「負のカイラル剤」という。)であろうということは推定できるものの、先願明細書には、旋回能の温度依存性が正のカイラル剤(以下、単に「正のカイラル剤」という。)と負のカイラル剤を併用した発明については、具体的な構成は全く開示されておらず、また、その効果を実施例によって示すこともされていない。
そして、先願明細書に係る特許の出願より前には、正と負のカイラル剤を混合して用いるという技術的思想はまだ知られていなかったことを勘案すれば、先願明細書の上記記載は、正と負のカイラル剤を混合して用いることを意味するとの類推を許すものではあるとしても、一般的、抽象的すぎるため、明細書全体の記載からみても、到底特定の技術的、具体的思想を開示したものということはできない。
したがって、先願明細書に「ネマチック液晶に添加したときに誘起されるコレステリック相の旋回能の温度依存性を正とする光学活性物質少なくとも一つと、ネマチック液晶に添加したときに誘起されるコレステリック相の旋回能の温度依存性を負とする光学活性物質少なくとも一つとを含有することを特徴とするネマチック液晶組成物」が記載されているということはできない。
(2) 先願明細書には、正のカイラル剤と負のカイラル剤とを組み合わせて用いることによってもたらされる効果に関しては、「更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能であり、多様な要求に対応する事ができる優れたものである。」との記載がされているだけである。しかし、この程度の記載が、本件明細書に記載された本件各発明の効果を意味するものとは解し得ない。先願明細書の実施例をみても、そこには、正のカイラル剤である一般式(Ⅰ)に相当する7種類の化合物のコレステリックピッチ(μm)が、-20℃では190から465、+20℃では55から172、+90℃では22から82のピッチをとり得ることが記載されているだけである。すなわち、そこに示されているのは正のカイラル剤のみを用いた場合に-20℃から+90℃において使用可能であることだけであるから、このような状態で上記記載をみても、そこから得られるのは、正と負のカイラル剤を混合して用いた場合には、上記の温度幅が更に広くなることの示唆だけであり、そこに、効果が具体的、かつ明瞭に記載されているとすることはできない。
2 取消事由2(相違点についての判断の誤り)
(1) 2種の光学活性物質を組み合わせるときに、ねじれ方向が同一方向のものを組み合わせることは自明ではない。現に、甲第4号証刊行物記載の発明のように、らせんのねじれ方向が逆のものを組み合わせている例がある。
正のカイラル剤は、先願明細書によって初めて明らかにされたものであり、本件各発明の特許出願時においても知られていなかった。したがって、甲第4号証刊行物記載の発明は、負のカイラル剤同士の組み合わせの技術ではあるものの、他のカイラル剤との混合技術について考慮する場合には、これを先行技術として考慮するのは当然のことである。
先願発明は、旋回能の温度依存性を正とするための手段として、特定のカイラル剤が効果があることを初めて見出した技術であり、また、甲第4号証刊行物記載の発明は、それまでの技術者が考えつかなかった逆向きのカイラル剤を混合することにより、初めて旋回能の温度依存性を正あるいは自在に調整することに成功した発明である。このように、両者は、旋回能の温度依存性に着目した技術という点で軌を一にするものであるから、先願明細書の記載について、カイラル剤を組み合わせて用いる場合のらせんのねじれ方向について考慮した発明である甲第4号証記載の発明を先行技術として参照することは、当然なされるべきことである。
(2) ネマチック液晶について、正と負のカイラル剤を添加することが本件各発明の特許出願前に知られていないという事実があるにもかかわらず、決定は、正と負のカイラル剤を添加するとき、らせんのねじれ方向が逆のものを組み合わせると、その組成物は、ある温度で両者の旋回能が相殺して、全く旋回しなくなる可能性や、らせんのねじれ方向が逆転する可能性があるという判断をした。しかし、このような判断は、先願明細書の記載からは導き得ない単なる推論にすぎない。
しかも、上記二つの可能性は、当業者であれば一定の温度範囲内で回避することができる。すなわち、ねじれ方向が逆である正と負のカイラル剤を混合するときに、それぞれのカイラル剤の種類を選択し、それらを混合する際の混合比率を調整し得るから、TN素子が必要とする一定の温度範囲内で上記二つの可能性を生じさせないことが可能になる。この調整の技術は、甲第4号証刊行物に記載されており、同刊行物は、図4のとおり、ねじれ方向が逆で、負と負のカイラル剤を添加した場合を開示する。そして、上記技術は、添加するカイラル剤が負と負の組み合わせの場合だけでなく、正と負の組み合わせの場合においても適用できることは明らかである。
したがって、先願発明において、ねじれ方向が同一のものを採択すべき動機がない。
(3) 先願発明の目的が、「ネマチック液晶組成物の旋回能の温度依存性を正で大きくすること」にあることは、先願明細書の記載から明らかである。先願発明は、それによってTN方式などの液晶表示素子のVthの温度依存性をより小さくして、液晶表示素子の使用温度範囲をより広くできることを技術的特徴としている。それ故、先願明細書には、先願明細書の特許請求の範囲記載の一般式(Ⅰ)において、Rがn-C6H13の化合物が正でより大きくなるため、特に好ましいと記述されているのである。
正と負のカイラル剤を組み合わせる場合に、<1>同一方向の組み合わせでは、正のカイラル剤のみの場合よりも旋回能の温度依存性は小さくなり、<2>逆方向の組み合わせでは、正のカイラル剤のみの場合よりも旋回能の温度依存性は大きくなる。
してみると、先願明細書の上記「更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能」とは、旋回能の温度依存性が正のカイラル剤のみの場合より大きくなる場合をいうのであるから、正と負のカイラル剤の組み合わせとしては、逆方向が採択されることは明白である。
第4 被告の反論の要点
1 取消事由1(一致点の誤認)について
先願明細書の発明の効果の欄には、「本発明は温度の上昇に伴って、ピッチが減少する光学活性物質を少なくとも一種類以上添加した液晶組成物であるので、TN素子として用いた場合に、・・・動作温度範囲が広くとれる優れた効果をもたらすものである。またさらに、光学活性物質の添加濃度を変化させる事によって、ピッチの値を変える事ができるので、VONおよびVOFFの温度変化を比較的自由に選択する事ができる。さらにこの効果は、・・・逆の温度変化を持つ、従来知られていた光学活性物質と組み合わせる事によって、更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能であり、多様な要求に対応する事ができる優れたものである。」と記載されており、上記記載は、正のカイラル剤少なくとも一種類を添加した液晶組成物に、負のカイラル剤を組み合わせることを、具体的かつ明確に記載している。
そして、上記記載は、先願明細書の特許請求の範囲に記載される発明である一般式(Ⅰ)で示される化合物(正のカイラル剤)を1種類以上含有する液晶組成物が、正のカイラル剤を含むものであるので、TN素子として用いた場合に動作範囲が広くとれる効果をもたらすものであることを示すとともに、正と負のカイラル剤を組み合わせて用いることにより、更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能であること、すなわち、更に広い動作範囲がとれるという効果を有することも示すものである。
したがって、先願明細書には、正と負のカイラル剤を組み合わせて用いるという具体的構成が、具体的効果とともに明確に記載されている、ということができる。
2 取消事由2(相違点についての判断の誤り)について
(1) 甲第4号証刊行物記載の発明は、ねじれが規定の温度依存性を示すようにする手段を見出すことを技術的課題とする点で本件各発明や先願発明と軌を一にするものではあるが、旋回能の温度依存性が負と負との2種類のカイラル剤を添加する液晶組成物において右回りと左回りを組み合わせていることにより技術的課題を解決しているものであり、正のカイラル剤を添加することで解決している先願発明とは、技術的課題の解決手段が異なるものである。したがって、先願発明のカイラル剤のねじれ方向を把握するうえで、甲第4号証刊行物は参考にならない。
(2) 液晶組成物の一定角度のねじれ(旋回能)を利用して表示を行う通常の液晶表示素子では、組成物のねじれがなくなることやねじれ方向が逆転するということは表示不良を招く原因になることであり、そのような不都合を回避すべきことは、当業者が最初に考慮すべきことである。したがって、通常らせんのねじれ方向を同一とするということは、当業者に明らかである。
原告主張のように、混合比によってねじれ方向の逆転が回避できる場合があるとしても、それは特殊な混合比を選択しなければならないということであるから、通常の方法ではない。
(3) 先願発明の目的は、負のカイラル剤を用いた場合には、表示可能な温度範囲が狭くなる欠点があったので、正のカイラル剤である一般式(Ⅰ)の化合物を添加することにより動作範囲が広くとれるようにすることであって、原告主張のように、「ネマチック液晶組成物の旋回能の温度依存性を正で大きくすること」ではない。先願明細書の「一般式(Ⅰ)の化合物において、Rがn-C6H13の化合物を用いることが、ピッチの温度変化が大きく、高温側におけるしきい電圧の降下を少なくできる効果が大きく、特に好ましい。」との記載は、先願明細書に記載される一般式(Ⅰ)の化合物を添加する発明において、化合物(Ⅰ)の中でもRがn-C6H13の化合物を用いれば、他を用いた場合より更に効果があり好ましいことを記載しているにすぎず、この記載が「逆の温度変化を持つ、従来知られていた光学活性物質と組み合わせることによって、更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能であり、」との前記記載の解釈に影響を及ぼすことはあり得ない。
第5 当裁判所の判断
1 取消事由1(一致点の誤認)について
(1) 甲第3号証によれば、先願明細書には、発明の効果の欄に、「本発明は温度の上昇に伴って、ピッチが減少する光学活性物質を少なくとも一種類以上添加した液晶組成物であるので、TN素子として用いた場合に、一定電圧で駆動した場合に、動作温度範囲が広くとれる優れた効果をもたらすものである。またさらに、光学活性物質の添加濃度を変化させる事によって、ピッチの値を変える事ができるので、VONおよびVOFFの温度変化を比較的自由に選択する事ができる。さらにこの効果は、・・・逆の温度変化を持つ、従来知られていた光学活性物質と組み合わせる事によって、更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能であり、多様な要求に対応する事ができる優れたものである。」(6頁左上欄14行ないし右上欄10行)との記載があることが認められる。そして、甲第3号証及び弁論の全趣旨によれば、先願明細書の特許請求の範囲記載の一般式(Ⅰ)で示される化合物は正のカイラル剤であること、及び、負のカイラル剤の存在とそれを用いる技術は周知であったことが認められる。
以上の事実によれば、先願明細書には、温度の上昇に伴ってピッチが減少する光学活性物質である正のカイラル剤少なくとも一種類を添加した液晶組成物に、逆の温度変化を持つ光学活性物質、すなわち、温度の上昇に伴ってピッチが増加する光学活性物質である負のカイラル剤を組み合わせることが開示されているものと認められる。そしてまた、上記記載は、先願明細書の一般式(Ⅰ)で示される化合物を1種類以上含有する液晶組成物が、正のカイラル剤を含むものであるので、TN素子として用いた場合に、動作範囲が広くとれるとともに、正と負のカイラル剤を組み合わせて用いることにより、一定電圧で駆動した場合に、更に動作温度範囲が広くとれ、多様な要求に対応することができるという効果を有することを開示するものというべきである。
したがって、先願明細書には、正と負のカイラル剤を組み合わせて用いるという具体的構成が、具体的効果とともに記載されているものということができる。
(2) 原告は、先願明細書には、正と負のカイラル剤を組み合わせて用いた場合の効果が実施例によって示されていないことを挙げて、正と負のカイラル剤を組み合わせたものは具体的には開示されていない旨主張する。
しかし、先願明細書には、正と負のカイラル剤を組み合わせて用いた場合の効果が、「更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能であり、多様な要求に対応する事ができる」という形での具体性をもって記載されていることは前記認定のとおりである。そして、特許法29条の2にいう当該特許出願の日前の他の特許出願の願書に最初に添付した明細書又は図面に記載された発明は、実施例によって示されていなければならないというものではないから、原告の主張は、採用することができない。
2 取消事由2(相違点についての判断の誤り)について
(1) 液晶組成物において、旋回能を利用して表示を行う際に、組成物のねじれがなくなることや、ねじれ方向が逆転することが発生する場合には、表示不良を招くことは明らかである。
そして、弁論の全趣旨によれば、液晶組成物の旋回能がその成分の旋回能の和になることは、先願明細書に係る特許出願当時周知であったことが認められる。そうすると、らせんのねじれ方向が逆のカイラル剤を添加した場合には、組成物のねじれがなくなったり、ねじれ方向が逆転したりすることが起こるおそれがあることは明らかであるから、当業者は、通常はらせんのねじれ方向を同一にすることを考慮するものと認められる。したがって、少なくとも、先願発明において組み合わせて用いられる正と負のカイラル剤の中に、ねじれ方向が同一であるものが含まれることは、当業者に自明であるものというべきである。
(2)ア 原告は、甲第4号証刊行物記載の発明のように、らせんのねじれ方向が逆のものを組み合わせて旋回能の温度依存性を正あるいは自在に調整している例がある旨主張する
しかしながら、らせんのねじれ方向が逆のものを組み合わせる限り、組成物のねじれがなくなったり、ねじれ方向が逆転したりするおそれが常に存在する以上、これを避けるためには特別の工夫が必要となることは明らかであるから、原告主張のとおり、らせんのねじれ方向が逆のものを組み合わせつつ、これに伴う不都合を除去する例があるとしても、そのことは、せいぜい上記特別の工夫の存在を知らせ、必ずしもらせんのねじれ方向を同一にしなければならないわけではないと考えさせるだけの意味しか有さず、らせんのねじれ方向を同一にすることを放棄させるだけの力を有するものではないことはいうまでもないことである。その意味で、原告主張の例の存在は、当業者が通常はらせんのねじれ方向を同一にすることを考慮するとの上記(1)認定の妨げに、何らなるものではない。
のみならず、甲第4号証によれば、上記発明は、負のカイラル剤同士を添加することを前提としつつ、この前提の下で、旋回能の温度依存性を調整するために、ねじれの方向が逆のものを組み合わせるという解決手段を用いた発明であることが認められ、このような前提に立たず、旋回能の温度依存性を調整するために、正と負のカイラル剤を組み合わせるという解決手段を採用した発明である先願発明とは、前提も解決手段も異なるから、先願発明を解釈するに当たって、先願発明が採用しなかった甲第4号証刊行物記載の発明の解決手段が採用されなければならないなどということはあり得ない。
イ また、原告は、液晶組成物のねじれがなくなったり、ねじれ方向が逆転することは、ねじれ方向が逆である正と負のカイラル剤を混合するときに、それぞれのカイラル剤の種類を選択し、それらを混合する際の混合比率を調整することによって回避し得る旨主張する。しかし、液晶組成物のねじれがなくなったり、ねじれ方向が逆転することを回避し得る方法があるとしても、それは、カイラル剤の種類を選択したうえで、更に特殊な混合比を選択しなければならない方法であるから、いわば余分の手間ひまをかけなければならないものであり、通常の方法ということはできず、上記方法の存在は前記(1)の認定を左右するに足りるものではない。
(3) 原告は、先願発明の目的は、「ネマチック液晶組成物の旋回能の温度依存性を正で大きくすること」にあることを前提として、先願明細書の「更に広い範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能」との記載は、旋回能の温度依存性について、正のカイラル剤のみの場合より大きくなる場合をいうから、正と負のカイラル剤の組み合わせとしては、逆方向が採択される旨主張する。
ア しかし、甲第3号証によれば、先願明細書には、「温度の上昇に伴ってコレステリックピッチが大きくなる光学活性物質を用いた場合には、高温でKが小さくなるので、VON、VOFFの温度勾配が大きくなる。この素子の点灯と消去状態を得ることができる駆動電圧は、VONとVOFFの間の電圧であるから、一定の駆動電圧を用いた場合には、表示可能な温度範囲が狭くなる欠点があった。」(2頁右上欄2行ないし9行)との記載があることが認められ、上記記載に前記1(1)の認定に係る発明の効果の欄の「本発明は温度の上昇に伴って、ピッチが減少する光学活性物質を少なくとも一種類以上添加した液晶組成物であるので、TN素子として用いた場合に、一定電圧で駆動した場合に、動作温度範囲が広くとれる優れた効果をもたらすものである。」との記載を総合すれば、先願発明の目的は、負のカイラル剤のみを用いた場合には、表示可能な温度範囲が狭くなる欠点があったことから、正のカイラル剤である一般式(Ⅰ)の化合物を添加することにより動作範囲が広くとれるようにすることにあるものであって、「ネマチック液晶組成物の旋回能の温度依存性を正で大きくすること」にあるものではないと認められる。
なお、先願明細書には、「一般式(Ⅰ)の化合物において、Rがn-C6H13の化合物を用いることが、ピッチの温度変化が大きく、高温側におけるしきい電圧の降下を少なくできる効果が大きく、特に好ましい。」(2頁右下欄16行ないし末行)との記載があることが認められるけれども、上記記載は、その内容からみて、一般式(Ⅰ)の化合物を添加する際に、化合物(Ⅰ)の中でもRがn-C6H13の化合物を用いた場合に、他の化合物を用いた場合に比べて更に効果が大きく、特に好ましいことを記載しているものと認められるから、上記記載をもって、先願発明の目的が、「ネマチック液晶組成物の旋回能の温度依存性を正で大きくすること」にあるということはできない。
したがって、原告の主張は、前提を欠くものであって、採用することができない。
イ また、正のカイラル剤にこれとはねじれ方向が逆の負のカイラル剤を組み合わせることにより、旋回能の温度依存性が正のカイラル剤のみの場合よりも大きくなったからといって、必ずしも広い温度範囲でのVON、VOFFの温度調節が可能となるというものではなく、逆に、正のカイラル剤にこれとねじれ方向が同じ負のカイラル剤を組み合わせることにより、旋回能の温度依存性が正のカイラル剤のみの場合より小さくなったからといって、必ずしも広い温度範囲でのVON、VOFFの温度調節が不可能となるというものではないものと認められる。
すなわち、甲第3号証によれば、TN素子のしきい値電圧は、
π・K
Vth=√─────
Δε
K=K11+1/4(K33-2K22)+2K22(L/P)
(K11は Frankの弾性係数、Δεは誘電率の異方性、Lは液晶層の厚み、Pはピッチ)
によって与えられ、ピッチ(P)が大きい(旋回能が低い)ならば、しきい値電圧が低く、ピッチ(P)が小さい(旋回能が高い)ならば、しきい値電圧が高いという関係があることは、先願明細書に係る特許出願当時、周知の事項であったことが認められる。
そして、正のカイラル剤に、これとはねじれ方向が逆の負のカイラル剤を添加した場合には、旋回能の温度依存性は正のカイラル剤のみの場合よりも大きくなるとしても、旋回能自体は、正のカイラル剤のみの場合よりも低下することは明らかである。そうすると、上記周知事項を前提とすれば、正のカイラル剤に、これとはねじれ方向が逆の負のカイラル剤を組み合わせた場合には、TN素子のしきい値電圧が低下し、駆動電圧Vo等の条件によっては、VON、VOFFの温度調節ができる温度範囲が正のカイラル剤のみの場合よりも狭くなる場合もあり得ることが認識されるものである。すなわち、これについて先願明細書の実施例2に例をとれば、正のカイラル剤のみを添加している上記実施例2のものに、ねじれの方向が逆の負のカイラル剤を添加して、正と負のカイラル剤を組み合わせた場合、そのVOFFの値は、同図面の「実施例」のVOFFを示す実線の値よりも低くなり、「実施例」、すなわち、正のカイラル剤のみの場合よりも低い温度で駆動電圧Voを下回ることになる。したがって、その場合には、上記実施例2が問題としている-20℃から100℃までの間においては、VON、VOFFの温度調節の範囲は狭くなるものと認められる。
一方、上記実施例2について、正のカイラル剤のみを添加している上記実施例2のものに、ねじれの方向が同じ負のカイラル剤を添加して、正と負のカイラル剤を組み合わせた場合、そのVOFFの値は、同図面の「実施例」のVOFFを示す実線の値よりも高くなり、「実施例」、すなわち、正のカイラル剤のみの場合よりも高い温度まで駆動電圧Voを下回らないことになる。そうすると、正と負のカイラル剤を組み合わせた場合には、ことにより上昇したVONの値が駆動電圧Voを上回らない範囲内では、前記-20℃から100℃までの間においては、VON、VOFFの温度調節の範囲は広くなるものと認められる。
したがって、原告の主張は、この点においても採用することができない。
3 以上のとおりであるから、原告主張の取消事由はいずれも理由がなく、その他決定にはこれを取り消すべき瑕疵は見当たらない。
第6 よって、本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 山下和明 裁判官 山田知司 裁判官 宍戸充)
<省略>